気と氣の違いを痛がりな人・痛がらない人を例えに考えてみました。極論で『どっちが良い』などという話ではないし『○○だから旧漢字を使おう』などという偏った話でもありません。念のため。
「こんな強さで痛いはずがない」
整体院やマッサージでそんなこと言われた経験はありませんか?
もし言われていたらそんなところは二度と行かなくてよろしい。
病院も然り。色々検査して何も見つからない時『痛いはずがない』と仰るお医者さんは意外といらっしゃるようで困ったもんです。
痛みは本人にしかわかりません。あなたが痛ければ痛い。それが事実。
現在の手力整体塾には、とっても痛がりな人と全然痛がらない人の両方が揃っています。痛がりな人は見学の時から全身何処を触っても悶絶。近頃は少し慣れてきたのか大分おとなしくなりましたが、部位によっては変わらず叫んでおります。可哀想だけれど面白がられてもいます。反対にどこも痛がらない人は、十中八九痛がるピンスポットを強めに圧しても気持ちの良いレベルだそうです。
この違いを『個人差』と言ってしまえばそれまでですが、全身痛がるのも何処も痛くないのもちょっと問題だと思うので、痛みについてもう少し掘り下げてみようと思います。
痛みは警告
痛みには、切った打ったなど、急性的な入力に対する早い痛みと、良くある腰痛や肩コリのような慢性的入力に対する遅い痛みがあります。メカニズムは少々異なりますが、どちらも危険が迫っていることを知らせてくれるとてもありがたい感覚で有ることに違いはありません。
痛みのメカニズムについて、遅い痛みは筋肉の酸欠、早い痛みは脱分極によるカルシウムイオン放出と、末梢レベル(肉体)では既に解明されたと言っても過言ではありませんが、最終的に痛みを判断する脳は未だ迷宮。大宇宙みたいな脳がスッキリ解明されるにはまだまだ当分かかります。ってかたぶん無理です。
危険は肉体的なことばかりとは限りません。怒りや不安、焦りなどの感情も、強烈だったり必要以上に長引いたりすれば危険とみなされ警告が発せられます。
昨日こんなニュースが目に止まりました。
痛い部位が存在しないだけに難治性の痛みとして名高い幻肢痛も、脳を納得させることで痛みが和らぐという画期的な研究結果だと思います。先日のブログと少しかぶるような・・・・。
危険ゲージの差
兎に角痛みは危険信号なのですから、痛がりと痛がらない人の差は『危険ゲージの差』といって良いと思います。何が危ないか、どれくらいで危ないかは人それぞれ違うって事です。
手力整体塾の痛がらない塾生は、長年極真空手を楽しんできた人。そりゃあ『危ない』のレベル高いはずです。
痛がりな塾生は症状も感じていないので過去一度も整体やマッサージなど受けたことがない人。どれくらいの外圧が危険なのかどうかわからない身体なら、過剰な反応をしてしまうのも頷けます。かくいうワタクシも、昔々スクールに通いだした頃はあちこち痛い思いをしました。卒業する頃にはどこも平気になっていましたけどね。
痛みのゲージに随分と差のある先のお二人ですが、更に面白いのは、お二人とも明確な症状は感じていないということ。痛がりなら症状もたくさんあって良さそうですけれどね。
ここには共通点が有るようです。
痛がりな人は愛犬へ意識の大半を注いでいるようです。
痛くない人もまた、幼子二人へ意識が注がれています。
氣ばっかりで気が無いのかもしれません。反対に気ばっかりで氣が無い場合はいつも何処かしらの症状に悩まされている人が多いような・・・。
気と氣の違いは向いている方向の違い
戦後GHQがやってきて漢字を簡単なものへ統一する前、『気』は『氣』と書かれていたそうです。具体的に誰が決めたのかわかりませんが、気は閉じ込めた状態、氣は八方へ広がっている状態なので、まぁ随分とイメージが違います。
(って事を書いているブログが沢山有るのですが元ネタを探すのに苦労しました。元ネタは多分この⇒(氣の呼吸法) 。みなさんリスペクトが足りませんな。ウェルクやらなんやらDeNAの問題もありましたから引用や参照にはリスペクトを示しましょうね)
単純な極論で「本来の“氣”を使おう」としている人が多いようですけれど、ワタクシはやっぱりどっちも必要でバランスの問題だと思うのです。
- 気で自分のカラダへ意識を巡らせる
- 氣で外(八方)へ意識を巡らせる
意識は常に目まぐるしくあちこち巡る。落ち着きがないとか注意散漫な状態とはちょっと違って、集中した意識が内にも外にもグルグル巡るのが理想だと思います。『気を配る』ってそういうことです。たぶん。
(と、思っていましたが追記。外界を感じるための感覚器・受容器は自分の内にあるので結局のところ自分へしっかり意識を向けないと外は感じられないわけですな)
で、いっつもこれをやっていると疲れちゃうので、たまにはひとつに集中する『瞑想』でバランスをとる。脳の疲れ、気や氣の疲れは集中で取れるのであります。