整体は民間療法です。医療類似行為である『あんま指圧マッサージ』なら治療行為を行えますが、民間療法の整体は(他、カイロ・○○マッサージ・足つぼ・リンパ○○など全て)決して治療をおこなえません。出来るとか出来ないとかじゃなくやっちゃいけない。施術自体はオマジナイ・慰安の域を超えてはならないのです。
ただし、根拠なく他人の身体に触ることは好ましくありませんから、触るための理由は必要。姿勢や動作から動きの悪い筋に発生している本当のコリを予想して、確認の意味で施術を行い、本来の目的である『体育』を説いていくのが整体なのであります。
つい先日、『徹底的に動きを観察して正確な言葉に置き換えていく。この段階を省いたら施術でもセルフケアでも整体はオマジナイでしかありません。』と書いたばかりですが、施術そのもは実際オマジナイなのであります。
プラセボになるかノセボになるか
プラセボとかプラシーボとか呼ばれる現象をご存知でしょうか。良薬と思えば効くアレです。反対に、毒だと思えばタダの小麦粉でも毒になる現象をノセボ(ノーシーボ)効果と呼びます。
某リュウマチ専門医が仰ってましたが、リュウマチが治る人の共通点は、孫が生まれたとか新しい仕事が動き出したとかで『病気を忘れた人』なんだだそうです。
ガンが見つかって開腹したものの手の施しようがなくそのまま閉じたワタクシの叔母がおりましたが、結局当時病気の無かった叔父が先に逝き、叔母はその後も随分と長生きをしていました。
プラセボ効果は偽薬効果と訳されていますけれど、そもそもはラテン語のプラケーボー『私を喜ばせる』という意味の言葉に由来するらしいので、何も薬みたいなものを摂取しなくても起こる現象。
ヘルニアや脊柱管狭窄症、変形性膝関節症など、痛みとの因果関係が無いのに痛みを対象とした手術がいまだ無くならないのも、プラセボ効果で回復する人が稀にいるからなのです。
全員プラセボやオマジナイや整体で回復するかと言われたらもちろんそんな事ありません。その人の氣がどこを向いているかでプラセボもオマジナイも効き方が変わる。だから必ず本人の意思確認が必要です。
子どもやお年寄りの場合は家族からの施術依頼になるわけですが、家族の思いと裏腹に本人の氣がこちらの導く方へ向いていない場合は断るのが懸命です。ノセボになってしまう可能性が高いですからね。
取り除ける病変や臓器移植での回復はさておき、プラセボ以上に安全で効果的な治療は未だ無いのが現状。Happy が人を癒やし Sad や Miserable が病を引き起こします。んが、Happy も Sad も人それぞれ違うので、科学的に解明されて画一的な治療が確立される事はまず無いでしょう。けれど『病は氣から』、これは事実なのであります。
あ、だからって力任せに Happy と思い込んだり言い聞かせたりしても無駄です。そんなもの意識している時点でプラセボは効果を発揮できません。健康オタクの人達が健康じゃないのはそのためです。
施術は本来毒でも薬でもない偽薬。オマジナイ・プラセボの効果を如何に最大限発揮できるかというのが民間療法の焦点であり全てです。
信頼に値する人なのか何だか胡散臭い人なのか。その時点ですでに効果の程は決まります。反射を用いて小さな痛みをコツコツ取る。身体の状態をその都度確認する。そんなちょっと面倒な手力整体の施術は信頼を高めるための行為なのであります。
一律な点数で評価できるものじゃなく、好きか嫌いかで好みの分かれる音楽や芸術や料理などに似ているのが治療です。100点満点の正解も0点の間違えも無く、人の数だけ、好むものと好まないものがあります。
「コレが正解でアレは間違い」そいう言い切ってしまったほうが人気者に成れる平成の世ですが、「アレはダメ」と言った時点で宗教に成り下がっている同業者を見るにつけほとほと悲しくなったり呆れたりするのであります。人気者に成れば確かにプラセボ効果は上がりますけれどね。
治療は芸術
自分ならではの絵を描きましょう。
色んなテクニックを学び、他人のエッセンスを使い分けることなどナンセンスです。
自分のやっていることの本質を知りましょう。
どんなに高等な技術でもプラセボやノセボには敵いません。有名なテクニックを謳ったら、有名なテクニックだというプラセボは発揮するかもしれませんがそれだけの事。自分の技に酔ったりしませんように。
治療は芸術。相手によっても時と場合によっても良いか良くないかは変わります。
自分が表現する世界を支持してくれる患者さん・お客さんに対しプラセボ効果を出せる人になる。イケてる療法家・整体師に成るということはそういう事です。