ゆとり教育は、1980年度から施行された学習指導要領による教育方針であるが、1992年度から施行された新学力観に基づく教育や、2002年度から施行された「生きる力」を重視する教育をゆとり教育であると定義する人もいる。
日教組が学校5日制を提起したのは1972年で、「個性重視の原則」「生涯学習体系への移行」「国際化、情報化など変化への対応」などゆとり教育基本がまとめられたのが第2次中曽根政権時の1984年。
思えばボク等(1968生まれ)の時代も週に1コマ『ゆとり』なんてわけの分からない授業が時間割にあったので、広い意味ではワタクシもゆとり世代なのですなぁ。
ゆとり教育。発想自体はとても良いと思うのだけれど『ゆとり』の使いみちをちょっと間違えて、○とか☓とか良いとか悪いとか極論の部分は結局変わらず『学習の仕方』を変えてしまった。
学習の仕方まで個性を重視するのは教育者の怠慢でしょう。
小学校・中学校あたりで勉強をしなきゃならないのは、一般常識的基本の知識を得ることと『勉強の仕方』を身につけるため。脳ミソなんて元々皆一緒だから頭が良いとか悪いとかは扱い方を知っているかどうか、勉強の仕方が身についているかどうかだけの差だと思うのです。
生涯学習を出来る人になるためにも『勉強の仕方』はとても大切でそこに個性など要らない。勉強の先、出来ること出来るようになった時にどうなるかというところにこそ個性が必要なのです。
『南へ向かう』とう“目的”のための手段は無数にありますが、『南へ向かう中継地』つまり“目標”が決まったら手段は数えるくらいになるわけで、勉強の仕方という手段も概ね決まっていて人の数ほど無いのが真理だと思います。
習って得る
一言一句違わず、一挙一動をそっくり徹底的に真似る。それがあらゆることの最速習得法です。
最初からオリジナルなものを創出できる極一部の天才を除いて、我ら凡人はとにかく真似るところから。それが『習う』ということじゃないでしょうか。『やる事』ではなく『やり方』に本質があります。何をやっているかよりどうやっているかをつぶさに観察して真似ましょう。
同時学習
- 基本手技の手順を覚える
- 動作別筋肉一覧を作る
- レストアストレッチ・PNF・スタビライゼーション
- トリガーポイント理論・探査
- 自分の身体を“整体”にする
- 文章を書く
- 感覚(六根)を磨く
- 視点・視野・視座コントロール
- 筋肉の生理を叩き込む
- 姿勢と動作を観る
- 自分の軸(コンセプト)を固める
- ウェブサイトを作る
- 臨床を積む
手力整体塾で勉強してもらうことをざっと書き出してもこれくらいあります。これらをひとつずつやっつけようという気持ちもわかります、んが、アレとコレをバラバラに分けるのではなく全部同時にやる事をおすすめしています。関連のないものをバラバラに覚えるのは大変ですが、関連付けされたものはすんなり頭に入ってくるからです。
例えばこの絵。
絵にある要素が記憶に残るのは誰でも右の方だと思いますがどうでしょう。
ひとつずつ片付けたくても、どれもこれも完成はまずありません。
一見完成しそうな基本手技や筋肉一覧にしても、すべての筋肉が一気に頭へ入るわけではありませんし、基本手技の手順すら相手によって変わります。ウェブサイトも同様けっして完成などしないので、同時進行的に繋げながら勉強していって欲しいと思います。
『自分のやり方』を押し通したいならそれでも構いませんが、現状に疑問を感じているなら『やる事』ではなく『やり方』、手段・システムを見直しましょう。
手段はいくつも無い。そこにオリジナリティーは必要ありません。
ちなみに、お手本にする人にも新進気鋭のIT社長にも道端の野良猫にももちろんアナタにも、1日の時間は平等に24時間。「時間がない」は言い訳になりません。そこんトコよろしく。
施術や身のこなし、姿勢、立ち位置、言葉や勉強の仕方まで、とにかくそっくりに真似る。何故そうしているのかわかるまでひたすら真似る。言葉を替えたりアレンジしたり応用出来る様になるのはそれからです。
プライドがお高いとコレが中々難しいのですが、プライドなんぞクソの役にも立ちません。絵だって歌だってダンスだって文章だって釣りだって、全て上手な人を真似るところからはじまるのです。
身体も頭も道具。道具は使いようです。理想的な道具の使い方は自ずと決まっているのです。
真似るのはあくまで手段。目的を真似ちゃあダメです。目的の目標化に注意!
小さな整体の学校手力整体塾では、とにかく上手に真似てもらった上で、身体と頭の使い方をマスターできたら卒業ということになります。覚えただけでは卒業できませんのでそのつもりで。